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バビロン捕囚

北のイスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされた。残されたイスラエル人国家は南のユダ王国のみとなったが、アッシリアの矛先はユダ王国にも向けられることになる。アッシリアの軍勢に攻め寄せられ、ユダ王国は滅亡の危機に瀕するが、ユダ王国はアッシリアと講和を結び、ユダ王国がアッシリアに貢物をするという約束をすることで独立を保つこととなった。その後、100年以上に渡ってアッシリアに服属することになるが、紀元前609年にアッシリアも新バビロニア王国という新興国家により滅ぼされてしまう。

アッシリアが滅亡寸前であったとき、アッシリアと同盟を結んでいた古代エジプトのネコ2世は援軍を差し向けた。援軍がアッシリア支援に向かうには、ユダ王国領内を通過しなければならないのであるが、なんとユダ王国はエジプト軍の通過を許可しなかった。おそらく、アッシリアが滅べばユダ王国は自由になれると考えたのであろうが、ユダ王国はエジプト軍によって打ち砕かれ、服属することになってしまう。しかし、エジプトによる支配は長くは続かず、紀元前604年に新バビロニアによりエジプトが敗北すると、ユダ王国は新バビロニアの軍勢によって占拠され滅亡した。

ここに神に繁栄を約束された民族であるはずのイスラエル王国人の国は全て滅びた。ユダ王国のイスラエル人はカナン地方からバビロニア地方へと強制移住させられるという、世に有名な「バビロン捕囚」がこのとき行われる。バビロン捕囚は2回に分けて行われ、一回目は有力者たち約3000人を、二回目はイスラエル人全体を移住させた。その上、かつてソロモン王によって建造されたイスラエル神殿もこのとき破壊されてしまったのだ。バビロン捕囚に関してであるが、少し前まで移住させられたイスラエル人達は奴隷の様な扱いを受けていたと言われていたが、近年の研究によると、一定の自治や自由は認められていたことが判明している。しかし、イスラエル人達にとって、神に約束されたイスラエルの地に住むこと自体が自分たちのアイデンディティであったため、異国の地に移住させられることは耐えがたい苦痛であったのだ。

さて、宗教というものは面白いもので、迫害されればされるほど信者はその信仰を強めるという傾向がある。迫害は「神が与えた試練である」という考えが必ず起こり、この試練に耐えた者が神に迎えられるという考えに至る。現在、広く信仰されている宗教は必ず迫害の時代を経験している。イスラエル人達の信仰も「バビロン捕囚」によって昇華した。現在、ユダヤ教として知られている宗教の戒律の基本はこの時代に形成された。さらに、イスラエル人達も「ユダ王国の民」という意味の「ユダヤ人」と呼ばれるようになったのだ。

新バビロニアが新興国であるアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされると、半世紀にわたるバビロン捕囚は終わりを迎える。アケメネス朝のキュロス2世によってユダヤ人達が解放されたのだ。実際のところ、この解放の後にイスラエルの地に帰還したユダヤ人は全体の2~3割であると言われている。半世紀もの時間が経てば、ユダヤ人達にも世代交代が起こり、イスラエルの地を知らないバビロニア生まれのユダヤ人が大半であったことがその要因であるらしい。しかし、イスラエルの地にユダヤ人が戻ってことにより、神殿も再建された。神殿が再建されると、バビロニア地方に留まっていたユダヤ人達も約5000人が帰還を果たした。
ファランクス


ユダヤ人達はアケメネス朝ペルシアの支配下にあったが、それなりに繁栄を築いていた。しかし、西方からある天才が現れ、その時代を刷新する。アレクサンドロス大王の東方遠征である。ギリシアの一都市国家に過ぎなかったマケドニアは天才アレクサンドロス大王の下で全ギリシアを制圧し、紀元前334年にアケメネス朝ペルシアに侵攻した。アレクサンドロス大王と言えば、アリストテレスが家庭教師として幼いアレクサンドロス大王を教育していたことが有名である。父のフィリッポス2世は軍事面でマケドニアを強化し、上の図の様な「ファランスク」と呼ばれるマケドニア式集団戦法を確立している。歩兵が他国よりも長い長槍を持ち、集団となることでさながらハリネズミの様相を呈する。この状態で敵の集団に進撃するのだ。マケドニア兵よりも短い槍しか持たない他国の兵たちはファランクスにまるで歯が立たなかったのである。

アレクサンドロスはアリストテレスの学問と、父の軍事力を受け継ぎ、ギリシア世界を制覇したのだ。アレクサンドロスが偉大である所以は、ファランクスというギリシアを制覇した戦術に更に改良を加えたことにある。正確には、その運用法にである。平凡な人間であれば、百戦錬磨の戦術に手を加えようとはしない。しかし、アレクサンドロスはファランクスの弱点に気づき、それを補うために騎兵を用いた。ヨーロッパにおいて騎兵の運用方法に革新を与えたといわれる人物が2人いる。一人は三兵戦術を編み出したナポレオンであり、もう一人がこのアレクサンドロスである。

さて、ファランクスという陣形は正面の敵に対して無類の強さを発揮する。しかし、側面に目を向けると無防備この上なく、さらに方向転換等の機動力も極めて劣っている。あれだけの人数が各々に7メートルもの槍を携えていれば当然である。そこに目を付けたアレクサンドロスは、ファランクスの側面を守るために、機動力の優れた騎兵を用いた。騎兵を用いて、側面をカバーさせれば、ファランクスを打ち破ることは困難であり、正に必勝の戦術となる。当然ながら、騎兵が精強であることがこの戦術の条件となるが、マケドニア騎兵はその錬度の高さで知られており、さらにアレクサンドロス自らが騎兵を指揮することもあり、その士気は極めて高かったのだ。

アレクサンドロス大王が最もその名を轟かせた戦いが「イッソスの戦い」である。紀元前334年、アケメネス朝ペルシアへと進行したアレクサンドロス率いるマケドニア軍の前に、ダレイオス王のペルシア軍が立ちふさがった。マケドニア軍は約4万であるのに対し、ペルシア軍は10万にも上った。つまりは倍以上の敵に遭遇したのである。歴史物語に「倍の敵を打ち破る」というシチュエーションは付き物であるが、その状況の凄まじさは表現を絶する。そもそも倍以上の敵と「戦う」などは愚か者のやることであり、かの兵法書「孫子」においても「小勢で大勢に立ち向かっても餌食となるだけ」と書かれており、兵法上のタブーである。例えば、「一人対二人」であったらどうであろうか。運が良ければ一人の方が勝つこともあるかもしれない。では、「二人対四人」であったらどうか。仮に二人の内の一人が敵を倒さずに敗れた場合、残された一人は四人を相手にしなければならない。この不利性は人数が増せば増すほど大きくなる。

イッソスの戦いでは「4万対10万」である。いかにマケドニアが勝利することが難しい戦いかが分かるだろう。もちろん、戦争は人数だけでは測れないが、兵数というのは3本の指に入る勝敗要素である。だが、アレクサンドロスは前述の戦法を用いて勝利した。後に天才と呼ばれることになるアレクサンドロス大王はこのとき、若干22歳である。

<ここまで>

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

しばらく間が空いてしまいまして、すみませんでした(;´Д`)
なにぶん、プライベートが忙しくてですね、時間が取れませんで……。

しかし、あれですね、台風ですね!!
先週の月曜日も若造が出社時にえらい目に遭ったものですが、今週もダメそうです(笑)

それはそうと、若造氏、年末に沖縄旅行に行くことが決定しまして、航空券を予約してウキウキ気分です(^^)/
ただし、具体的なプランがまだ決まっていないので、何をしようかな~と考えているところです。友人とは離島に行こうとか言い合っています。沖縄に詳しい人、なんか冬でもできるオススメを教えてくださいm(__)m

ではではノシ
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