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死刑

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

あれですね、お花見シーズンですね!!
若造は子供の頃は桜を見ても「ああ…ピンクの花だね」ぐらいにしか感じなかったのですが、高校生時代に通学路で満開の桜を見て「ああ…美しい…」と初めて素で感じました。それから桜は大好きです!!

とまぁ、これぐらいにして今回は死刑制度についての記事です。
なぜ急に死刑制度かと言いますと、袴田事件に触発されました。

1966年に起きた袴田事件の犯人として死刑判決を受け、45年間も拘留されていた袴田さんが27日に釈放されましたね。袴田事件についての詳細はwikipediaでも参照してください↓↓↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%B4%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6


袴田事件が本当に冤罪事件かどうか、若造には知る由もないわけですが、今回の事態を受けて死刑廃止論議が盛り上がるのは避けられないでしょう。

というわけで今回は死刑廃止論議がテーマなわけです。
死刑廃止論議では、もちろん死刑に対する賛否両論があるわけですが、そうした代表的意見に対して若造が一言ずつ述べていきたいと思います。

※死刑廃止論議はめちゃくちゃ盛んな議論ですので、それこそいろんな人が様々な意見を述べています。今回の記事で述べる若造の意見もそうした有象無象の一つに過ぎませんので、絶対的に正しいものではありません。

始めに述べておきますが、若造は死刑制度存続派です。
それでも、今回はあえて両方の立場の意見に一言加えていきます。


死刑制度存続派の代表的意見

①死刑制度には犯罪の抑止効果がある

若造<死刑制度にどれほど抑止効果があるのか不明であるし、数値などの定量的に示すことも不可能であろう。また、「死刑になりたかった」などとして死刑制度を動機とする犯罪が行われていることにも注意が必要。普通に考えれば、死刑は怖いものだが、犯罪者の心理は常識では測れない側面もある。

②被害者や遺族の心情を考えれば妥当

若造<これは筋違いの意見。死刑制度を含めた法律とは社会の秩序維持のために施行されるものであり、誰かの心情を根拠とするものであってはならない。被害者や遺族に同情する気持ちはよく理解できるが、誰かの復讐のための死刑制度ではないことを考えなければならない。



死刑制度反対派の代表的意見

①死刑制度は国家による殺人である

若造<ぶっちゃけ意味不明。ならば懲役は「国家による強要罪」であるのか、罰金は「国家による恐喝罪」であるのか。禁固は監禁罪か、逮捕は暴行罪か。そもそも、法律とは国民に課せられるものであり、国家に課せられる憲法とは別のものである。

②冤罪であった場合に取り返しがつかない

若造<冤罪であったら、死刑でなくても取り返しがつかない。冤罪による懲役で何十年も無駄にした人の人生はやはり取り返しのつかないものである。冤罪は発生した段階で取り返しのつかないものであり、罰制度の問題と言うよりも、捜査や裁判での問題として取り扱うべきである。

③死刑廃止は国際的な流れである

若造<これが一番理由として意味不明。ならば他国に倣って「9条を改正し自衛隊も軍隊とすべきなのか」と聞くと、これを主張する大体の人は口ごもる。他国がやっているからというのは、言ってみれば制度の是非を考えることを放棄しているのであり、ただの迎合でしかないことを理解すべきである。



こんな感じです。お分かりだと思うのですが、若造が死刑制度に賛成であるのは主に賛成派①の理由であります。とはいえ、確かに抑止力がどれほど働くのかは分かりませんし、死刑になりたいがために凶悪犯罪を犯す連中がいることも事実。実に難しい問題ですね…

今回はこのへんで($・・)/~~~

ではではノシ
元刑務官が明かす死刑のすべて元刑務官が明かす死刑のすべて
(2006/05)
坂本 敏夫

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整形

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

取り急ぎではありますが、記事を投稿いたします( ^^) _旦~~
リクエストしていただいた「ウクライナ」についての記事は次の記事で書かせていただきます。

なんで急いでいるかと言いますと、若造は今日から海外に一週間旅立ってしまうのですよ(^v^)
またかよ!? またなんです、最後の学生期間ですからね(笑)

今回は整形手術の是非について考えてみたいと思います。

皆さんは「整形手術」にどういう意見をお持ちでしょうか??
ポジティブな意見も、ネガティブな意見もあると思います。

ポジティブな意見としては・・・
「自分の顔なんだから好きにすればいい」「綺麗になれば自信がつく」「今は整形ぐらい普通だ」などなどがあるでしょう。

ネガティブな意見としては・・・
「親にもらった顔にキズをつけるなんて」「人間は顔じゃない」「個性を大事にすべきだ」なんかがあると思います。

正直なところ、「個人としての整形」に対する若造自身の考えでは「整形??したければすればいいんじゃないの??」であります。しかし、「社会」を考えると、そう前向きにとらえるのはどうかなと考えたりするのです。

「整形が普通になった社会」を想像してみます。

なぜ整形する人が「整形したい」と思うかと言えば、やはり「美人・イケメン」になりたいからでしょう。なぜ「美人・イケメン」になりたいのかと言うと、人にちやほやされたいからでしょう。

「人間は顔じゃない!!」と良く聞きますが、これは間違いだと若造は思っていまして、正しくは「人間は顔だけじゃない」だと考えています。確かに容貌が優れていなくても、その他の要素が優れている素晴らしい人はたくさんいます。しかし、他人がその人が優れていると知るには一定以上の親密さがあるからなのです。

もしも、通りすがりの人が「イケメンの連続殺人犯」と「ブサイクな慈善事業家」とすれ違ったとしたら、彼の眼には「イケメン」と「ブサイク」という要素しか映りません。

外見が人間の一定の要素を占めることは間違いないでしょう。だからこそ、人々は必死になって自分を着飾るわけです。では、「美容整形手術」もそれらの外見を良くする手段の一つですから、化粧なんかと同じように考えるべきなのでしょうか??

整形と化粧の最大の違いは、言わずもがな「根本を変えるかどうか」です。化粧は洗えば落ちますが、整形は一度変えたら二度と元には戻りません。自分自身の生まれ持った「自分」を捨て去るのです。

もしも、人々が当たり前のように整形をするようになったら、必ず起こるであろうと予想できるのは、「容貌が劣った人への強い風当たり」です。

良いですか、今の社会では女性が化粧をするのを推奨しています。はっきりと社会が公言しているわけではありませんが、実際としてはそうです。元々が美人ならいざ知らず、あまり美人でない人がすっぴんで生活するのは、あまり快く思われません。男性も同様です。社会的地位に応じたブランドを身につけ、ピシッとしたスーツを着ることを毎日義務付けられます。

そもそも、「化粧・ファッション」というものは個人の自由であり、本来は他人に迷惑をかけるものではありません。しかし、「ふさわしくない」という実に曖昧な概念によってそれらは人々に義務として押しつけられるのです。


このこと自体は人間が社会的動物であることから、仕方のない自然現象であり、旧共産圏なみの統制を布かねば変えることができません。

このことを踏まえて、「整形が身だしなみになった」社会がどんな社会化かといえば、ブサイク・ブスに対して、「なんで整形してこないんだ!?社会人にふさわしい顔というものがあるだろう!?」と言われるような社会です。もちろん、はっきりとは言わないでしょう。しかし、就職面接で「顔が劣った人」は合格できなかったり、「顔が劣った人」はプレゼンなどの発表でも聴衆に一歩引かれるのです。

この記事で若造が申し上げているのは極論です。全てがそのまま当てはまるわけではありませんが、まったくの間違いであるとも言えないでしょう。

若造は「そんな社会やだなぁ・・・」と劣った容姿で思うのです(笑)

今回はこのへんで($・・)/~~~

ではではノシ

※若造は今夜から一週間海外に飛び立ってしまうので、その間の更新は停止させていただきます。たびたびで申し訳ない
シュール歴史

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

更新が一週間も滞ってしまいました。
ちゃうねん・・・忙しかったんや・・・こんな若造でもやることあるんや・・・
それでも一定の訪問者がいらっしゃったことに感謝感謝!!

お待たせしちゃった分、本腰入れて記事を書きましょうぞ!!

と言うわけで、今回は一週間も放置してしまったリクエスト、「歴史」をどう捉えるべきかを考えてみましょうか!! リクエストをくれた方、ゴメンナサイm(__)m

さてさて、皆さんは「歴史」とは何だとお考えでしょうか??

日本の歴史教育では、「歴史」をどう捉えるべきかを考える機会が無いような気がします。

「歴史」は大雑把に分けて二つに区分出来ます。
①現実に存在する「もの」の時間的変遷
②「①」を対象化し、記述・記録したもの

我々が一般的に学んでいる「歴史」は主に②となります。

分かりずらい?? 私もそう思ったので、具体例を一つ。
<例>
①:ある若造の一日=起床→朝食→外出準備→最寄り駅まで歩く→電車に乗る→横須賀へ行く→海上自衛隊での講習→……→居酒屋で打ち上げ→横須賀駅まで歩く→……→入浴→就寝準備→就寝
②:若造の日記=今日は横須賀の海上自衛隊を訪ねて、講習を受けた。横須賀地方総監にお会い出来て光栄だった。体験搭乗した護衛艦むらさめは非常に興味深いものだった。

①は「実際に若造がその日に具体的に何をしたのか」であります。
②は「その日の出来事を若造が日記として記述したもの」であります。

実際に体験した若造以外が、若造のその日の出来事を知るには②の日記を読むしかありません。しかし、日記には海上自衛隊研修のことは書いてありますが、「朝食に何を食べたか」や「講習後の打ち上げ」については何も記述されていません。すると、若造の朝食や打ち上げのことは、他の人にとっては無かったも同然の出来事となるのです。

ゆえに「歴史」とは、「誰かが残した資料や痕跡を解釈したもの」だと言いかえることが出来ますね。

さてさて、「歴史」とは「我々の解釈」だということが分かりました。


では、次はいったい「誰が」解釈するのかという話になります。
ここで面白いのが、誰が解釈するのかによって「歴史」というのは大きく変化するという点です。

例えば、「ナポレオン・ボナパルト」という誰もが知る人物がいます。
彼が為したフランス革命からのヨーロッパ席巻は…
フランス人から見れば、「フランス人の国民的英雄」でありますが、
イギリス人やオーストリア人、ロシア人など周辺国家の人からは「許されざる侵略者」として見られているわけです。

さらにさらに、国家だけでなく…
法学者から見たら、「ナポレオン法典」が際立って見えますし
政治学者から見たら、「国民国家の創立者」という点が取り上げられます。
軍事研究家だったら、「三兵戦術」や「国民軍」に注目します。

つまり、何が言いたいのかといいますと、普遍的な「歴史」など無いのです。

「歴史」とは実際に起こったこととは限らず、さらに解釈する人によって姿を変える蜃気楼のような「曖昧さ」を有しています。この「曖昧さ」があることは実にやっかいなことです。

それは曖昧である「歴史」を「道具」として利用できるということです。何の道具かと言いますと、利益を得るための道具です。

我々、日本人ならばこの「歴史」の「道具化」というのは身近なことであると思います。日本は「歴史問題」というものを抱えています。

太平洋戦争時の「歴史的」出来ごとの賠償に関する問題です。中国との間には「南京大虐殺」等に関する歴史問題がありますし、韓国との間には「慰安婦」に関する歴史問題があります。さらに国連規約に日本を敵国だと定めた「敵国条項」があることも歴史問題だと言えます。

これらの歴史問題は、「歴史的」問題であるがために曖昧であり、議論が紛糾しているわけです。個々の個人の思いは別として、国家は少なくともこの歴史問題を「国益のための外交カード」として扱っています。

外交カード、つまりは道具です。「道具」としての「歴史」では、上記の①という意味の歴史はどうでも良いことです。いかに自国(自分)に有利な歴史解釈を国際的に承認させるかという一点に全てがかかっています。

是非、このことを皆さんに分かっていただきたい。南京大虐殺が起こったとされる当時の南京の人口が20万人で、中国が主張する虐殺被害者数が30万人であり、矛盾するだとかそんなことは中国にとってはどうでも良いのです。大事なのは、ただ「利用できるか」どうか、その一点のみであります。

いくら尖閣諸島が歴史的に日本が領有していた証拠を中国に提示しても、むこうはそんなものはどうでもよいのです。だって、事実なんかに興味は無い、ただ「利用できる」から主張するのみであります。

要するに、これら歴史問題を解決する手段は、「相手の主張に反する資料を提示すること」ではなく、「歴史に絡む主張をすることが相手国の国益に繋がらない状況を作る」ことです。

ここで、このブログに書き込まれた質問の一部を貼ります↓↓

「朝鮮史」の内容がどうも薄いなと。どうやら"まだはっきりしない部分が多い"...ということのようなのですが、やはり世界に開かれないと、国の歴史を掘り下げることすらままならないものなのでしょうか。それとも、歴史も含めた国内情報に、流出規制がかかっているだけ...?
長くなりました。
各国にはそれぞれに、例外なく誇るべき歴史があって、どんなに糞な現代情勢でも、先人が成してきたものは代わりない。世界中に広く周知されるべきと思ったのです。
「朝鮮史」については、単純に金銭的な問題ならば、大いに勿体無い話ですが;
若造さん、どう思われますか?


このコメントをくださった方は各国の歴史を調べていくうちに朝鮮史の不明確さに気付いたそうです。古代・中世朝鮮の史跡が多い北部が北朝鮮であることが、朝鮮半島の歴史があまり研究出来ていない原因の一つでありますが、もう一つの理由は韓国の「歴史問題」があると若造は考えています。

「独立国家であった朝鮮国家を、日本が侵略して主権を剥奪した」というのが、韓国・北朝鮮の主張であります。今日、少なくとも中国に残されている歴史的書物によれば、朝鮮国家は中世以来、何百年もの間、中国の歴代王朝の隷属国家であったとされています。

この「隷属国家」であったという「歴史」は、現在の北朝鮮・韓国の主張と喰い違い、現在の国益に反する事態を招きかねません。ゆえに発掘に乗り気ではないのだと思います。

私はこの「歴史の道具化」を批判する気はありません。現在の国際秩序を形成した第二次世界大戦の敗戦国である日本は「歴史の道具化」のターゲットとなることが多いですが、逆に戦勝国だった場合でもやはり「歴史の道具化」を利用していたでしょう。

正直、歴史を利用するのは非常にメリットがあるやり方ですので、もしも若造が政治家だったら利用するのだと思います。

大切なのは、「歴史問題」の本質が何であるのか、どのように対処すべきなのかを為政者が理解していることであり、我々国民が理解していることであります。

ピンポンパンポーン:今回の記事の「歴史」は「国家」を主体として考えています。歴史的事象に思いを抱いている個々人はこの限りではありません。


今回はこのへんで($・・)/~~~

ではではノシ
器

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

今回の記事では「人の器の大きさ」とは何だろうかを考えてみたいと思います。

というのも、今日ものすごく頭にくる出来事がありまして、その怒りを抑えるためにも、この記事を書きたいのです。

私は「器の大きい人」は以下3つのことが出来る人だと思います。

一つは、どんなに腹が立とうが、どんなに悲しかろうが、どんなに焦る状況だろうが、常に人前では冷静さを保ち、陰で泣いたり怒ったり焦ったり出来る人。無感情なのではなく、「抑える」という行為が出来る人に憧れます。

そう考え、今日は怒りを堪えようとしましたが、ダメでした。言葉や態度がどうしても刺々しくなってしまいますね(--〆)

「どんな怒りも20分経てば落ち着いてくる」という言葉を聞いたことがあります。確かに20分ぐらい心を落ち着けることに専念すれば、冷静になってきます。しかし、ふとした瞬間にまた怒りが湧いてくることを考えると、感情には波があるのかもしれません。


一つは、トラブルの原因に他人ばかりを挙げるのではなく、自分を省みることが出来る人。何かトラブルがあったときは、他人のアラばかりを探してしまいがちですが、そこに自分の反省点を見いだせる人はスゴイと思います。

たまにいる「どうしようもない人」と関わっても、「怒り」よりもまずは「反面教師」にしようと試みることは、なかなかどうして難しいものです。私なんかはやっぱり「怒り」や「イライラ」が先行してしまいますね。


最後は「いじられ役」が出来る人。皆さんの周りにも一人はいるのではないでしょうか。コミュニティの中で、みんなに冗談交じりで悪口を言われたり、馬鹿にされたりする人が。

知り合いに何人か「いじられ役」がいますが、彼らの器は大きいと思いますよ。「いじり役」をするのは誰にでも出来ますが、「いじられ役」をするのは難しいでしょう。例え、冗談だと分かっていても「カチンとくる一言」があるはずです。その一言を笑って受け流せるのは本当にスゴイことですよね(・.・;)


まぁ、今日何があったか簡単に言いますと、「後輩の一人に来年から私が就く仕事を馬鹿にされた」のです。いや、普段からたびたび私に無礼なことを言う後輩だったのですが、いつも笑ってツッコんで済ませていたのも良くなかった。頭の良い後輩なのですが、どうにも悪い意味で「空気が読めない」、「言っていいことと悪いことの区別が付かない」後輩なのです。

彼のためにも、冷静に諫めてあげるのが年上の私の役割かもしれませんが、さすがに怒りが抑えられず、露骨に冷たい態度を取ってしまいました。まだまだ私も若造です。

実は私が「怒っても、こんな殊勝な心がけをしている自分」に酔っているのも薄々感づいているのですよ。でも、そういう気分に酔わないと、上手く感情が制御できない若造なのです。

今日の自分と、皆様にこの格言を送ります。


「苦しいこともあるだろう。

 云い度いこともあるだろう。

 不満なこともあるだろう。

 腹の立つこともあるだろう。

 泣き度いこともあるだろう。

 これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。
                          
                        山本五十六」


山本五十六は太平洋戦争時の連合艦隊司令長官、つまりは軍人なので「男の修行」と称していますが、私が思うにこれは男女関係ない「人の修行」にも置き換えられます。この格言を胸に精進していきたいですね。


今回はここまでにします。

次の記事は「特定秘密保護法案」について書きます。

ではではノシ
戦犯

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

お待たせしました、スミマセンm(__)m

お知らせ通り、今回はリクエスト第4弾「戦犯」についての記事です。

本題に入る前に、今回の記事でちょっと遊んでみたいと思います。
「真面目に」記事を書いてみようかなと(-。-)y-゜゜゜

と言いますのは、このブログでは政治・歴史・時事問題など、ときには小難しい話題を記事にしていますが、その手の話題について書くときは、なるべく口語に近いくだけた文章で書くようにしています。

今回の記事では、いわゆる「硬い文章」で書いたらどうなるのかというのを試してみたいのです。

ここから真面目

 「戦犯」というのは、戦争犯罪人のことを指す。戦争犯罪人とは読んで字の如く、ある特定の戦争の最中に行われた戦時法違反、或いはその戦争そのものに対する責任があると軍事裁判にて裁かれた者のことである。

 太平洋戦争の戦犯たちは、極東軍事裁判所にて裁かれた。容疑をかけられた者たちは、容疑の種類に応じてA級戦犯・B級戦犯・C級戦犯と区分され、それぞれ裁きを受けることとなった。余談ではあるが、世間ではこの「容疑の種類区分」を「罪の重さによるランク付け」と誤認している意見が多数見られ、一部の自称「知識人」の中には、昭和天皇を指して、「S級戦犯」として責任追及すべきという意見を述べる者までもいる。これらは己の無知を喧伝せしめているに過ぎず、同様に彼らの意見の説得力を無きものにしてしまっている。

 話を戻そう。A級戦犯は「平和に対する罪」、B級戦犯は「戦争犯罪」、C級戦犯は「人道に対する罪」に対する責任追及が行われ、結果として一部例外を除いて有罪判決を受けた。これらの判決に対して、「事後法による遡及適応」に当たるとして批判も存在する。

「事後法による遡及適応」とは、「過去の行為に対して、それを罪だとする法を作り、裁くこと」であり、法原則におけるタブーである。分かりやすく例を挙げよう。仮に「歩き煙草」を有罪だとする法律が制定されたとする。この法律が制定された後、歩き煙草をした者が逮捕された。これは特に何も問題はないように思える。しかし、「過去に歩き煙草をしたことがある者全てを逮捕する」と言われたらどうであろう。納得できないはずである。この例から分かるように、「事後法による遡及適応」はタブーとされているのだ。

 ところが、極東軍事裁判ではこの「事後法による遡及適応」が行われた。このことのバックグラウンドには、政治的意図があり、「世界に甚大な惨禍を招いた世界大戦は、日本・ドイツなどの敗戦国によって引き起こされたものであり、連合軍はこの戦犯国を叩きのめした正義の国々である」ということを示す裁判であったからだ。ドイツの戦犯を裁いた「ニュルンベルク裁判」も同様である。

 さて、以上が「戦犯」に関する概略であるが、まずはこのブログに寄せられたリクエスト内容を見ていただきたい。

<犯した罪に応じて罰をうけたはずのいわゆる「戦犯」と言われる人たちがいまだに諸外国から悪人として扱われている現状をどのように考えてみえるか?>

 なるほど、確かに諸外国の人間に聞けば、東条英機といえばヒトラーに並ぶ極悪人であり、その他敗戦国の戦犯たちは未だ芳しくない評価を受けている。外国の人々ならずとも、国内の日本人でさえその様に考える人々はいる。質問してくださった方は、そのような状況を見て、おそらく歯がゆい思いをしているものと推察する。

 ここで一度、「戦犯」ではなく一般的な犯罪者について考えてみたい。仮にある殺人を犯した犯罪者がいたとする。その犯罪者は裁判にて懲役10年の判決を受けた。そこで彼は10年の懲役に服し、何事もなく出所した。この時点で、彼は法的には犯罪者ではなくなったわけである(前科者ではあるが)。しかし、世間は彼を「犯罪者」として見るだろう。再就職には苦労し、それどころか殺人の前科持ちと知ったら近づく人さえいないかもしれない。彼は法的制裁とは別の社会的制裁を受けるわけだ。

 ここで戦犯に話を戻そう。処罰を既に受けたはずの戦犯たちが未だに悪評を受けている原因は、この社会的制裁にある。確かに戦犯たちの法的な罪は処罰によって解消された。しかし、「世界大戦を引き起こしたという悪評」は消えないものであり、それこそが彼らに対する社会的制裁なのである。

 おそらく、こんな批判が飛んでくるはずだ。「敗戦国の人間だけが世界大戦の原因ではなく、戦勝国側の人間にも責任はあったはずだ」と。その通りである。一方の陣営のみによって戦争は引き起こされたわけではなく、連合国側にもその責任の一端は間違いなくある。

 そもそも、連合国による戦争犯罪も行われたことは今では知られていることである。ソ連による「カティンの森事件」なり、アメリカ軍による「原爆投下」なり、ベルリン陥落後の連合軍兵士による略奪・暴行なり、多くの事実が暴露されている。しかし、「犯罪が行われた」ことと「犯罪が裁かれること」は必ずしも直結しない。例え、連合国側による戦争犯罪があったとしても、それは裁かれなかった。

 敗戦国と戦勝国、等しく戦争犯罪を犯したが、なぜ片や裁かれ、片や免罪されているのか。答えは至極簡単である。「戦争に勝った」者と「戦争に負けた」者であるからだ。「勝てば官軍、負ければ賊軍」、何百年も昔から言われてきたことである。道理はどうあれ勝った側が正義なのだ。残念ながら、それが戦争というものの現実であり、おそらく今後もそれは変わらないであろう。今なお、非難される戦犯たちが犯した最も大きな罪、それは「戦争に負けた」ことだ。

 そして、「戦犯の国際的不名誉を回復すること」は今の日本にとって何のメリットもないどころか、国際的非難などのデメリットを招く。もしも、戦犯たちが真の愛国者なのであれば、「自分たちの国際的名誉回復は必要なし」と言うであろう。

 歴史的に悪名を受けた人物が再評価を受けるのは、その人物が生きた時代より遥かに未来であると相場が決まっている。なぜならば、その人物が悪名を受けていること自体にメリットを感じている存在が居る限り、それは難しいからだ。悪名を受けた人物が、今でいう戦国武将の様に、歴史上の登場した人物の一人に過ぎなくなったとき、改めてその人物に対する公正な評価が下される。

ここまで真面目

ウハッwwなんだこの文章はwww息が詰まる(笑)

やっぱりくだけた文章の方が書いてて面白いですね\(◎o◎)/

とは言え、「戦犯」に関する考え方は本当に色々ありますので、私の意見は「ふ~ん、お前はそういうふうに考えるんだ」程度に思っといてください(@_@;)

今回はここまででです($・・)/~~~

ではではノシ
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