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バビロン捕囚

北のイスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされた。残されたイスラエル人国家は南のユダ王国のみとなったが、アッシリアの矛先はユダ王国にも向けられることになる。アッシリアの軍勢に攻め寄せられ、ユダ王国は滅亡の危機に瀕するが、ユダ王国はアッシリアと講和を結び、ユダ王国がアッシリアに貢物をするという約束をすることで独立を保つこととなった。その後、100年以上に渡ってアッシリアに服属することになるが、紀元前609年にアッシリアも新バビロニア王国という新興国家により滅ぼされてしまう。

アッシリアが滅亡寸前であったとき、アッシリアと同盟を結んでいた古代エジプトのネコ2世は援軍を差し向けた。援軍がアッシリア支援に向かうには、ユダ王国領内を通過しなければならないのであるが、なんとユダ王国はエジプト軍の通過を許可しなかった。おそらく、アッシリアが滅べばユダ王国は自由になれると考えたのであろうが、ユダ王国はエジプト軍によって打ち砕かれ、服属することになってしまう。しかし、エジプトによる支配は長くは続かず、紀元前604年に新バビロニアによりエジプトが敗北すると、ユダ王国は新バビロニアの軍勢によって占拠され滅亡した。

ここに神に繁栄を約束された民族であるはずのイスラエル王国人の国は全て滅びた。ユダ王国のイスラエル人はカナン地方からバビロニア地方へと強制移住させられるという、世に有名な「バビロン捕囚」がこのとき行われる。バビロン捕囚は2回に分けて行われ、一回目は有力者たち約3000人を、二回目はイスラエル人全体を移住させた。その上、かつてソロモン王によって建造されたイスラエル神殿もこのとき破壊されてしまったのだ。バビロン捕囚に関してであるが、少し前まで移住させられたイスラエル人達は奴隷の様な扱いを受けていたと言われていたが、近年の研究によると、一定の自治や自由は認められていたことが判明している。しかし、イスラエル人達にとって、神に約束されたイスラエルの地に住むこと自体が自分たちのアイデンディティであったため、異国の地に移住させられることは耐えがたい苦痛であったのだ。

さて、宗教というものは面白いもので、迫害されればされるほど信者はその信仰を強めるという傾向がある。迫害は「神が与えた試練である」という考えが必ず起こり、この試練に耐えた者が神に迎えられるという考えに至る。現在、広く信仰されている宗教は必ず迫害の時代を経験している。イスラエル人達の信仰も「バビロン捕囚」によって昇華した。現在、ユダヤ教として知られている宗教の戒律の基本はこの時代に形成された。さらに、イスラエル人達も「ユダ王国の民」という意味の「ユダヤ人」と呼ばれるようになったのだ。

新バビロニアが新興国であるアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされると、半世紀にわたるバビロン捕囚は終わりを迎える。アケメネス朝のキュロス2世によってユダヤ人達が解放されたのだ。実際のところ、この解放の後にイスラエルの地に帰還したユダヤ人は全体の2~3割であると言われている。半世紀もの時間が経てば、ユダヤ人達にも世代交代が起こり、イスラエルの地を知らないバビロニア生まれのユダヤ人が大半であったことがその要因であるらしい。しかし、イスラエルの地にユダヤ人が戻ってことにより、神殿も再建された。神殿が再建されると、バビロニア地方に留まっていたユダヤ人達も約5000人が帰還を果たした。
ファランクス


ユダヤ人達はアケメネス朝ペルシアの支配下にあったが、それなりに繁栄を築いていた。しかし、西方からある天才が現れ、その時代を刷新する。アレクサンドロス大王の東方遠征である。ギリシアの一都市国家に過ぎなかったマケドニアは天才アレクサンドロス大王の下で全ギリシアを制圧し、紀元前334年にアケメネス朝ペルシアに侵攻した。アレクサンドロス大王と言えば、アリストテレスが家庭教師として幼いアレクサンドロス大王を教育していたことが有名である。父のフィリッポス2世は軍事面でマケドニアを強化し、上の図の様な「ファランスク」と呼ばれるマケドニア式集団戦法を確立している。歩兵が他国よりも長い長槍を持ち、集団となることでさながらハリネズミの様相を呈する。この状態で敵の集団に進撃するのだ。マケドニア兵よりも短い槍しか持たない他国の兵たちはファランクスにまるで歯が立たなかったのである。

アレクサンドロスはアリストテレスの学問と、父の軍事力を受け継ぎ、ギリシア世界を制覇したのだ。アレクサンドロスが偉大である所以は、ファランクスというギリシアを制覇した戦術に更に改良を加えたことにある。正確には、その運用法にである。平凡な人間であれば、百戦錬磨の戦術に手を加えようとはしない。しかし、アレクサンドロスはファランクスの弱点に気づき、それを補うために騎兵を用いた。ヨーロッパにおいて騎兵の運用方法に革新を与えたといわれる人物が2人いる。一人は三兵戦術を編み出したナポレオンであり、もう一人がこのアレクサンドロスである。

さて、ファランクスという陣形は正面の敵に対して無類の強さを発揮する。しかし、側面に目を向けると無防備この上なく、さらに方向転換等の機動力も極めて劣っている。あれだけの人数が各々に7メートルもの槍を携えていれば当然である。そこに目を付けたアレクサンドロスは、ファランクスの側面を守るために、機動力の優れた騎兵を用いた。騎兵を用いて、側面をカバーさせれば、ファランクスを打ち破ることは困難であり、正に必勝の戦術となる。当然ながら、騎兵が精強であることがこの戦術の条件となるが、マケドニア騎兵はその錬度の高さで知られており、さらにアレクサンドロス自らが騎兵を指揮することもあり、その士気は極めて高かったのだ。

アレクサンドロス大王が最もその名を轟かせた戦いが「イッソスの戦い」である。紀元前334年、アケメネス朝ペルシアへと進行したアレクサンドロス率いるマケドニア軍の前に、ダレイオス王のペルシア軍が立ちふさがった。マケドニア軍は約4万であるのに対し、ペルシア軍は10万にも上った。つまりは倍以上の敵に遭遇したのである。歴史物語に「倍の敵を打ち破る」というシチュエーションは付き物であるが、その状況の凄まじさは表現を絶する。そもそも倍以上の敵と「戦う」などは愚か者のやることであり、かの兵法書「孫子」においても「小勢で大勢に立ち向かっても餌食となるだけ」と書かれており、兵法上のタブーである。例えば、「一人対二人」であったらどうであろうか。運が良ければ一人の方が勝つこともあるかもしれない。では、「二人対四人」であったらどうか。仮に二人の内の一人が敵を倒さずに敗れた場合、残された一人は四人を相手にしなければならない。この不利性は人数が増せば増すほど大きくなる。

イッソスの戦いでは「4万対10万」である。いかにマケドニアが勝利することが難しい戦いかが分かるだろう。もちろん、戦争は人数だけでは測れないが、兵数というのは3本の指に入る勝敗要素である。だが、アレクサンドロスは前述の戦法を用いて勝利した。後に天才と呼ばれることになるアレクサンドロス大王はこのとき、若干22歳である。

<ここまで>

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

しばらく間が空いてしまいまして、すみませんでした(;´Д`)
なにぶん、プライベートが忙しくてですね、時間が取れませんで……。

しかし、あれですね、台風ですね!!
先週の月曜日も若造が出社時にえらい目に遭ったものですが、今週もダメそうです(笑)

それはそうと、若造氏、年末に沖縄旅行に行くことが決定しまして、航空券を予約してウキウキ気分です(^^)/
ただし、具体的なプランがまだ決まっていないので、何をしようかな~と考えているところです。友人とは離島に行こうとか言い合っています。沖縄に詳しい人、なんか冬でもできるオススメを教えてくださいm(__)m

ではではノシ
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南北イスラエル

ダヴィデが建設し、ソロモンが発展させたイスラエル統一王国であるが、その隆盛も一時のものであった。ソロモンの死後、王国が南北に分裂するのである。曰く、北の「イスラエル王国」と南の「ユダ王国」である。イスラエル人達が、天使と格闘し子孫の繁栄を約束されたヤコブの子孫を自称したことはすでに述べた。そのヤコブには13人の子供がいたのであるが、イスラエル人達は当然ながら、自分たちはその13人の子供たちの子孫でもあることと自負している。

子供一人の子孫につき一つの部族、ヤコブの13人の子供の子孫を「イスラエル12部族」と呼ぶ。なぜ13人の子供なのに、なぜ13部族ではなく、12部族なのだろうか。ヤコブの三男レビの子孫をレビ族と呼ぶのであるが、このレビ族は代々、祭祀職を任される特別な一族であり土地を所有することはなく、イスラエル12部族に数えられることもなかった。

ソロモン王の死後、王座を受け継いだのはレハブアムであった。ソロモン王は神殿を建設したように多くの大事業を為した。後世から歴史を見た場合、ソロモン王が為したような歴史的建設事業は偉大なものだと捉えることが出来る。しかし、当時を生きる人々からしてみると、必ずしもそういう面では捉えられない。大事業にはそれに見合うだけの金がかかるのだ。王が大事業を行うとき、必ずそれには重税が伴う。ソロモン王は賢人王と言われるが、一方で重い徴税も民衆に課していたに違いない。

レハブアムもソロモン王の大事業を引き継ごうとした。しかし、民衆はそれを認めなかった。イスラエル12部族の内、10部族がレハブアム王に対して反旗を翻し、北部に「イスラエル王国」という独立国家を建設したのである。イスラエル統一王国は崩壊、残された2部族は南部に「ユダ王国」を建設した。この二国は長年に渡って争いあうことになる。

二つに分裂し、イスラエル人同士で争うようにはなったが、二つの王国の終止符は外部の敵によって打たれる。イスラエル王国は紀元前586年、新興国であったアッシリアに滅ぼされた。イスラエル王国は10もの部族で建設されたわけであるが、その10の部族は「反ユダ王国」の下に集っているに過ぎず、部族間の権力争いが頻発した。そうした内部抗争がイスラエル王国の寿命を縮めたのである。

蛇足であるが、このイスラエル王国の終焉はかつての日本の民主党政権に近いものがあると筆者は考えている。「反自民党」という旗の下、様々な源流を持つ政党が結集したのが民主党である。野党の時代は「自民党から政権を奪う」という一大目標が党の大前提であり、党内の様々な派閥はその目標をのみ目指してある程度協力し合っていた。しかし、2009年の選挙により政権を奪取し与党となると、内在していた様々な政治信条の対立が噴出し、内閣はまとまらず、グダグダな政権運営となってしまった。イスラエル王国は当初はユダ王国に対抗するためにまとまっていたが、ある程度イスラエル王国の基盤が出来上がると、部族間対立が噴出したのである。

話が脱線した。兎にも角にも、北のイスラエル王国は滅びた。実はイスラエル王国を形成していた10部族の、その後の足取りはいかなる歴史書にも記されていない。このことからイスラエル王国の10部族は「失われた十氏族」と呼ばれたりもする。おそらくは各地に散り散りとなり、ところどころの民族に吸収されたのであろうが、一昔前に「日ユ同祖論」という学説が流行ったことがある。曰く、日本人こそが失われた十氏族の末裔だという論である。

筆者自身はこの論を詳しく知っているわけではないが、どうやら日本の文化・風習に古代イスラエルとの類似点が多くみられるというらしい。たとえば、神社である。ちなみに神社と寺の違いは、「神道」か「仏教」かである(とは言え、現在では神仏合集といい、神社と寺が混合している状態である。例えば、寺に神道のものである鳥居があったりする。)。仏教はインドで生まれ、大陸から渡ってきた伝来宗教であるが、神道は日本古来の宗教だ。「八百万(やおよろず)の神」、万物に神が宿るという教えの宗教である。その日本古来の宗教に古代イスラエル文化の特徴があるらしい。

神社のシンボル、鳥居がある。「トリイ」という言葉は古代ヘブライ語のアラム方言で「門」という意味だという。また、エルサレム神殿には金を神に捧げる箱が用意されており、水で体を清める場所(洗盤)もあった。いずれも神社を思わせる特徴である。さらにはイスラエル十氏族の内、有力な部族に「カド族」が存在したが、これに「御」という尊敬語が付くことにより「ミカド」、つまり帝となり、天皇であるのだと主張する論もある。勿論、多くの反論が存在する日ユ同祖論であるが、調べると意外と面白いので、興味のある人は調べても良いかもしれない。

<ここまで>

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

最近、「デング熱」の感染者が出たようで、代々木公園が大変なことになってますね。でも、あれですよ、治療すればデング熱自体の致死率は0.1%も無く、インフルエンザの方が遥かに危険な感染症なので、心配しすぎないほうが良さそうです。心配のあまり、「デング熱に効く特別な天然水!!」とかの怪しげな商売に引っかかる方が余程馬鹿らしいですからね。社会で何か良くないことが起こると、それに便乗して不安を煽り、金儲けをしようとする連中が出てくるのが出てくるのが世の常です(-_-;)

ではではノシ

古代日本、ユダヤ人渡来伝説古代日本、ユダヤ人渡来伝説
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出エジプト

ヘブライ人は奴隷とされた。エジプトの奴隷と言えば、エジプトの最も象徴的建造物であるピラミッドも奴隷によって建造されたという説がある。この説は一昔前まで最も有力視されていたが、1990年代にギザの大ピラミッド付近にてピラミッド建設に従事したと思われる労働者達の住居跡と墓が発見された。

奴隷が住居と墓を与えられるはずもなく、ピラミッド奴隷建造説は否定された。実は労働者達のチーム編成や労働記録を記した文字も発見されており、ピラミッド建設時の労働環境が想像されていたような過酷なものではないことも分かっている。当時の記録によると、「二日酔いにて今日は休みます」という労働者の申告もあり、現代日本の労働環境よりも余程ゆとりあるものであったかもしれない。

エジプトの奴隷建造説が否定されたとはいえ、奴隷たちは依然として奴隷である。周囲を砂漠に囲まれた国での奴隷、さぞや厳しいものであるだろう。逃げ出そうにも、砂漠で朽ち果てるのがオチである。ヘブライ人達はこの後、エジプトで紀元前13世紀に至るまで奴隷であり続けるのである。

ヘブライ人達が行動を起こしたのはエジプト第19王朝の時代、旧約聖書「出エジプト記」によるとこの頃のエジプトでは奴隷身分であったヘブライ人達の人口が大きく増えていたようである。時のファラオはラムセス2世であるという説もある。ラムセス2世はエジプト軍を率いてパレスチナまで侵攻し、当時小アジア(今のトルコ辺り)に勢力を築いていたヒッタイトと大規模な戦争を繰り広げ、世界で初めての和平条約を結んだことで知られる。

出エジプト記にはファラオ「ラムセス」という記述しかなく、このラムセスがラムセス2世のことであるかは不明であるが、兎に角もラムセスは増えすぎたヘブライ人達を見て、「ヘブライ人達はエジプトで反乱を起こすのではないか」と考えた。ヘブライ人達の人口を減らさなければならない、ラムセスが考えたヘブライ人人口抑制策は非情なものであった。

その内容とは「生まれたヘブライ人の内、男児は皆殺しにせよ」である。当然ヘブライ人達は反発するが、彼らは奴隷である、強大なエジプトに対して刃向かうことなど出来ない。彼らは生まれた息子たちを隠そうとした。その隠された男子の一人がモーセであった。

このモーセはユダヤ教の中では最も重要な預言者であるとされる。エジプト人に見つかりそうになったとき、モーセの母親は息子を籠に乗せてナイル川へ流した。流されたモーセはなんとファラオの一族である王女によって拾われ、王宮で育てられることになる。成長したモーセはヘブライ人を酷使するエジプト人を成り行きで殺害してしまい、アラビア半島へと逃亡することになる。そして、逃亡中に神から「エジプトに戻り、ヘブライ人達を率いてカナンの地へ向かえ」というお告げを受けたらしい。エジプトに戻ったモーセはエジプト人たちをまとめ上げ、エジプトからの逃走を図った。

ファラオは軍勢を差し向けて、モーセたちを追った。とうとう紅海に追い詰められたモーセたち。そこでモーセが神に祈ると、紅海の水が二つに割れ、ヘブライ人達はエジプトの追手を振り切ることが出来たという。其の後、ヘブライ人達は40年かけてカナンの地まで辿り着き、ここに定住したのだ。ここまでの物語は旧約聖書「出エジプト記」に記されている内容で、もちろん脚色も含まれているが、ヘブライ人達がエジプトから逃れたのは事実であるようだ。この後より、ヘブライ人達は自らを「イスラエル人」であると称した。

<ここまで>

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

はぁ・・・三連休が終わってしまった・・・
こんなにも三連休の終わりが悲しいものだとは学生時代には想像もできませんでした(笑)

ちなみに若造、昨日は横浜にある「ラーメン博物館」に行ってきました。博物館って言っても、別にラーメンの歴史とかが展示されているわけではなく、全国の人気ラーメン店が出店している場所です。なんかあれですよ、昭和の街並みが再現されているのですけど、その再現っぷりが半端じゃなくて、すごく凝ってます。ノスタルジックな気分に浸れました。まぁ、若造は平成生まれなんですけどね(-。-)y-゜゜゜

それはそうと、なんだか現代のイスラエルの方も、なんだかキナ臭くなっていますね。なんだか最近は世界中で火種が増えているように感じます。ウクライナといい、イスラエルといい、イラクといい・・・(-_-;) 

ではではノシ

出エジプト記の秘密―モーセと消えたファラオの謎出エジプト記の秘密―モーセと消えたファラオの謎
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古代エジプト


イスラエルという国家がある。その国土は南北に細長く、国土面積にして約22,072キロ平方メートルであり、大きさは日本の6割程度である。西には地中海が広がり、南にはアフリカ大陸とアラビア半島を分かつ紅海への出口がある。そして、多くの中東国家の例に漏れず、国内にはネゲブ砂漠という広大な砂漠を有している。このイスラエルには、「イスラエル」とは別の呼び名がある。もう一つの呼び名は「パレスチナ」である。「イスラエル」と「パレスチナ」、同じ土地でありながら二つの呼び名を有するのは何故であろうか。この二つの呼び名の起源を知るためには、我々は数千年前の歴史を紐解かなければならない。

人類の歴史上、最も早く文明が築かれた場所の一つがイスラエルである。無論、何を以ってして文明とするかは未だに議論が絶えないところであるが、ともかくも「歴史」上にその地域は早い段階で登場する。古代のイスラエルは「カナン地域」と呼ばれ、後に同地域で商人として名を馳せるフェニキア人の祖先と言われるカナン人を始めとし、多くの民族が暮らしていた。イスラエルは乾燥地帯の広がる中東においては、ヨルダン川を始めとする水源に恵まれ、地中海に近いことから交易も可能である理想郷であったのだ。

やがて、このカナンの地にヘブライ人という遊牧民族が移住してくる。後にユダヤ人と呼ばれる民族である。彼らはこのカナンの地で遊牧生活を続けたが、紀元前17世紀頃に突如としてエジプトへ集団移住することになる。エジプト、国土の大半は砂漠で構成された地域である。しかし、砂漠であることが外敵の侵入を妨げることにも繋がった。古代エジプト人たちは強大な外敵に攻め込まれることなく、独自の文明を築き上げたのだ。それが現代までその足跡が残るエジプト文明である。砂漠において、エジプト人たちが強大な国家を築くことが出来たのは、世界最長の河川であるナイル川がその地域を南北に横断していたからだ。「歴史の父」と呼ばれるギリシャ人、ヘロドトスは現代まで残る世界最古の歴史書でもある自身の著作の中で、「エジプトはナイルの賜物である」と記述している。

彼は自身の人生の中で見聞した物事をまとめ上げ「歴史」を記述したが、紀元前5世紀の当時としても、既にエジプトにおけるナイル川の重要性を人々が認知していたことになる。ナイル川は一年の内、数回ほど洪水を引き起こす。無論、洪水は人々の生命・財産を奪い甚大な被害を与えたが、一方で川底から栄養分を土壌にまき上げる恩恵ももたらし、人々は豊かな農作物を蓄えることが出来たのだ。其の内、洪水被害を最小限に抑えようと考えるようになった古代エジプト人たちは、何とかして洪水のタイミングを事前に察知出来ないかと苦慮した。星々の動きから洪水を察知できないかと努力した結果、ある種の天文学が発達し、暦が生まれた。エジプト歴である。暦が生まれたことで、洪水を事前に察知できるようになったエジプト人たちは、ナイル川の恩恵のみを存分に活用し、強大な国家を築き上げたのだ。苦難の中で、人間が試行錯誤することによって発展が生まれたのである。

余談であるが、エジプトではビールが日常的に飲まれていたことが知られている。ビールの起源についてはメソポタミアであるとも言われるが良く分かっていない。古代エジプト人達は壺にビールを入れ、藁を用いたストローで飲んでいた。ストローが藁(英語でstraw)を語源とするのは、これが理由である。何故直接口にしなかったかと言うと、砂漠と隣り合わせの生活をしているエジプトでは日常的に砂埃が舞う。想像に難くないが、そのような中で発酵を必要とするビールを製造すれば、砂やホコリ等のゴミが多く混入することになる。要するに、ゴミが浮いている上澄みを飲まないために、ストローを挿して底の方からビールを飲むのである。

話が脱線した。エジプトでは強大な文明が発達した。ヘブライ人たちが集団移住してきた時点で既にエジプトは強大な国であったのだ。ここで想像してみてほしい。エジプトという地域が、周囲を砂漠に囲まれていることは既に述べた。周辺地域との交流が難しいがゆえに、エジプトには独自の文明が発展したわけであるが、この状況は島国のそれに近いものがある。島国は良くも悪くも排他的な風潮が強いと言われるが、当時の古代エジプトも排他的であった可能性が十分に考えられる。そこにヘブライ人たちが集団移住してくるのである。当然、古代エジプト人たちは、ヘブライ人たちを「異物」として捉えるであろう。強大なエジプトはヘブライ人たちを奴隷とした。ここに「ユダヤ人の歴史は、苦難の歴史である」と称されるユダヤ人たちの数千年に渡る苦慮の旅路が始まるのだ。

<ここまで>

皆さん、こんにちは($・・)/~~~

二週間ぶりの若造です(・.・;)
というわけで、今回は長期連載第二回目であったわけですけど…
書いてて楽しいですわ(笑)

しばらくはこの「イスラエル問題」についての長期連載が続きますので、よろしければお付き合いください。

あ、そうそう、ちょっと一言言いたいのですが…

祝アクセス数1万回突破!!!!!

皆さん、よくこのブログを訪問、というか知ってくださいましたという感じですが(笑)、なんだかんだで今月でブログ誕生1周年を迎えます。若造も社会人になって、更新ペースはどうしても落ちてしまいますが、コメントをちょくちょく書いてくださる方もおり、本当に感謝の言葉もありません。

もしも、少しでも記事を読んで何かを感じてくれる人がいれば、それほど嬉しいことはありません。
今後ともよろしくお願いします。

※コメント返しは週末にまとめて行います。スミマセン!!


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主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」……ゼカリヤ書 第8章3節より引用

アジアとヨーロッパを繋ぐ地域、中東。歴史的に東西を繋ぐ交易路が通り、世界の産出品や文化が入り乱れた地域である。中華世界と地中海世界を結ぶシルクロードもこの地を通っている。

シルクロードは、古くは漢帝国と古代ローマ帝国を繋いだ。漢の歴史書、後漢書では「大秦国王安敦の使者が日南郡(現在のベトナム)を訪れ、貢物を献上した」と記されている。この大秦国王安敦というのは、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことだと思われるが、実のところローマ側の記録には漢に使者を派遣したという記述は無く、東方交易を目論む商人が勝手に使者を名乗ったのではないかとも言われるが、ともかくもシルクロードを通して中華はヨーロッパ世界を認知した。

一方の西洋世界でも、シルクロードは東方から絹や陶磁器をもたらす交易路として知られていた。ドイツの地理学者リヒトホーフェンが、19世紀にこの交易路を「絹の道」と呼び始めたことからも、西洋世界で東方からの絹がいかに重要な交易品であったかを窺い知ることが出来る。

シルクロードという世界中の富を運ぶ交易路があれば、当然であるがその利権を糧にする国も出て来る。中東においても数多の商人が活躍し、その商人たちを束ねる強大な国家が現れては消えていった。中東の国家は、一時は欧州よりも、中華よりも優れた技術力を有することもあったし、同時代では世界最大の版図を築き上げた国家も誕生した。中東という地域は、世界の中心に成り得たのである。

一方で、その自然環境は厳しい。その大部分がケッペン気候区分で言うところの高温乾燥気候帯に属し、広大な砂漠が広がっている。砂漠、ごく限られた生物しか生息できない死の土地である。一面に広がる乾いた砂の大地は、日中の強い日差しを浴びて人間には耐えがたい50℃という気温を生み出す。かと思えば、一度日が沈むと砂の大地は貯め込んだ熱を惜しげもなく吐き出し、気温は一挙に氷点下にまで下がることになる。

余談であるが、砂漠においては住むことは当然のこと、足を踏み入れること自体が命取りに成り得る。しかし、交易路が砂漠を通っていることもあり、多くの人間が砂漠を行き来してきた。結果として、無数の人間が砂漠で命を落としてきたのであるが、その死因について興味深いことが判明している。

砂漠での死因であるのならば、まず思いつくのは体中の水分を絞り取られミイラと化してしまうことである。だが、砂漠での最も多い死因は「溺死」だと言われる。砂漠には"ワジ"と呼ばれるかつて流れていた河川の跡がある。実は砂漠でもまれに雨が降るのであるが、砂漠の砂は乾燥し過ぎているために水を吸収しない。すると、砂漠に降った雨は地下水とならずに、周囲よりも低い位置にある"ワジ"に流れ込むことになる。上流で雨が降ったことを知らずに"ワジ"を歩いていると、突如として鉄砲水に襲われることになるのだ。

話を戻そう。中東の苛烈な自然環境は多くの宗教を生み出した。厳しい環境の中で生活するゆえに安楽を求め神に祈ろうとするのか、あるいは人間の生死を簡単に左右する偉大な自然環境自体に神を見出すのか、とにかく宗教が中東に生きる人々の糧となったのだ。生み出された多くの宗教の一つが「ユダヤ教」、そして「イスラム教」である。いずれも現代に至るまで多大な影響を与えている。この二つの宗教は壮麗な文化を生み出し、そして争いを生み出した。

この記述は、今も続くイスラエル問題と呼ばれる争いが如何にして生まれ、如何にして推移しているのかを語るものである。砂漠という一寸先の安全も保証されない暗闇において、人々が見出した大きな光明がたまたま二つであったがために、人々が「どちらがより明るいのか」を相争い、死にゆくこの状況はどのような変遷を辿ってきたのか。その一端を我々で振り返ってみようと思う。



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