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主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」……ゼカリヤ書 第8章3節より引用

アジアとヨーロッパを繋ぐ地域、中東。歴史的に東西を繋ぐ交易路が通り、世界の産出品や文化が入り乱れた地域である。中華世界と地中海世界を結ぶシルクロードもこの地を通っている。

シルクロードは、古くは漢帝国と古代ローマ帝国を繋いだ。漢の歴史書、後漢書では「大秦国王安敦の使者が日南郡(現在のベトナム)を訪れ、貢物を献上した」と記されている。この大秦国王安敦というのは、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことだと思われるが、実のところローマ側の記録には漢に使者を派遣したという記述は無く、東方交易を目論む商人が勝手に使者を名乗ったのではないかとも言われるが、ともかくもシルクロードを通して中華はヨーロッパ世界を認知した。

一方の西洋世界でも、シルクロードは東方から絹や陶磁器をもたらす交易路として知られていた。ドイツの地理学者リヒトホーフェンが、19世紀にこの交易路を「絹の道」と呼び始めたことからも、西洋世界で東方からの絹がいかに重要な交易品であったかを窺い知ることが出来る。

シルクロードという世界中の富を運ぶ交易路があれば、当然であるがその利権を糧にする国も出て来る。中東においても数多の商人が活躍し、その商人たちを束ねる強大な国家が現れては消えていった。中東の国家は、一時は欧州よりも、中華よりも優れた技術力を有することもあったし、同時代では世界最大の版図を築き上げた国家も誕生した。中東という地域は、世界の中心に成り得たのである。

一方で、その自然環境は厳しい。その大部分がケッペン気候区分で言うところの高温乾燥気候帯に属し、広大な砂漠が広がっている。砂漠、ごく限られた生物しか生息できない死の土地である。一面に広がる乾いた砂の大地は、日中の強い日差しを浴びて人間には耐えがたい50℃という気温を生み出す。かと思えば、一度日が沈むと砂の大地は貯め込んだ熱を惜しげもなく吐き出し、気温は一挙に氷点下にまで下がることになる。

余談であるが、砂漠においては住むことは当然のこと、足を踏み入れること自体が命取りに成り得る。しかし、交易路が砂漠を通っていることもあり、多くの人間が砂漠を行き来してきた。結果として、無数の人間が砂漠で命を落としてきたのであるが、その死因について興味深いことが判明している。

砂漠での死因であるのならば、まず思いつくのは体中の水分を絞り取られミイラと化してしまうことである。だが、砂漠での最も多い死因は「溺死」だと言われる。砂漠には"ワジ"と呼ばれるかつて流れていた河川の跡がある。実は砂漠でもまれに雨が降るのであるが、砂漠の砂は乾燥し過ぎているために水を吸収しない。すると、砂漠に降った雨は地下水とならずに、周囲よりも低い位置にある"ワジ"に流れ込むことになる。上流で雨が降ったことを知らずに"ワジ"を歩いていると、突如として鉄砲水に襲われることになるのだ。

話を戻そう。中東の苛烈な自然環境は多くの宗教を生み出した。厳しい環境の中で生活するゆえに安楽を求め神に祈ろうとするのか、あるいは人間の生死を簡単に左右する偉大な自然環境自体に神を見出すのか、とにかく宗教が中東に生きる人々の糧となったのだ。生み出された多くの宗教の一つが「ユダヤ教」、そして「イスラム教」である。いずれも現代に至るまで多大な影響を与えている。この二つの宗教は壮麗な文化を生み出し、そして争いを生み出した。

この記述は、今も続くイスラエル問題と呼ばれる争いが如何にして生まれ、如何にして推移しているのかを語るものである。砂漠という一寸先の安全も保証されない暗闇において、人々が見出した大きな光明がたまたま二つであったがために、人々が「どちらがより明るいのか」を相争い、死にゆくこの状況はどのような変遷を辿ってきたのか。その一端を我々で振り返ってみようと思う。



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(2013/03/20)
ナショナル ジオグラフィック

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